会報 これから は、
同じ悲しみなのに誰とも違う思いを、
また、年月とともに変わり行く心情を、
文・句や絵・書に託した文集です。
偽りのない一篇一篇に、読む人は心を打たれ、
共感するに違いありません。
一人暮しに役立つ情報や催しのご案内も載っています。
最新94号の内容 | |
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Y.S.・N.K.・H.K.・F.Y.・H.K.・N.M. |
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次号の会報95号の原稿は5月10日迄にお願いします。
メールでの原稿の投稿先は、 ![]() 投稿文の一部をご紹介させていただきます。
思えば遠くへ来たもんだ 本当なの?我ながら驚きます。ついに、ここまで来たかという感じ。 現在の心境は?かけがいのない連れ合いを失って早や7年目が近付いています。 当時、悲しみに打ちひしがれているとき、2016年の新聞記事 Reライフ「妻に先立たれたら」の記事が目に入りました。 しばらくうっちゃって置いたものの、何故か心に引っ掛かり、思い切って事務局の石井さんに電話をしたのです。 石井さんはそのとき、丁寧にお相手をして下さり、東北に住んだこともあるという具体的な話もして下さいました。 当時は、藁をもすがる気持ちでしたので、何か救われた気持になったのが思い出されます。 光陰矢の如し。早いもので、あれから5年経ちました。お蔭さまであれからイベントのために上京し、石井さんを初め気ままサロンの皆さまとも実際にお話を交わす機会にも恵まれました。 配偶者を喪うということがなかったら、新聞記事には目もくれなかったでしょう。 不思議な縁です。「気ままサロン」入会時の心境はちょうど次のようなものでした。 当時ある雑誌に配偶者を亡くした男性が寄稿した文です。 「愛する者の喪失はちょうど爆撃で一面焼け野原になってしまった街の片隅で膝を抱えて、一人うずくまっている孤児のように心細く、寂しく、悲しく、また持って行き場のない怒りをたっぷり味わうことです。」 言い得て妙です。それから2021年の現在の自分はどうでしょう。つれあいを喪った悲しみは当然、べた~っと張りついている。 その自分の意識とは別にこうして何とか健康体で日常生活を送り、70歳を迎えることができるというのは、どこか生かされているという喜びの感覚がどこからともなく自然と湧いてきている自分を発見するのです。 20歳当時の自分が鏡を通して現在の70歳の自分を覗いたとしたら、どうでしょう。見えるのは紗々のたるんだ顔の老人そのものを向こう側に見えます。人生残りの方が少ない、後がない、崖っぷち、に来ているのです。あの20歳代の頃の時代はどうだったのでしょう。 1960年代から1970年代にかけての日本の風景は激しく揺れ、騒がしいながらも明日への希望と進歩が信じられる明るいものでした。 反面70歳を迎える、コロナ禍の日本の風景はどうでしょう。先の希望が見通せない、進歩していくの、反対の下り坂を降りていかざるを得ない、どんよりしているイメージです。 恐らくこのような風景の日本で、同時代の人と共に残りの人生を重ねていくことになるのでしょう。 要するに「名誉」「金銭」「肩書き」「成功体験」等々といった価値観とは無縁の人生を送るということです。積極的にそれを受け入れていくということでもあると思います。 アンチエイジング流行りで、少しでも外見を若く見せたい、という風潮ですが、無理です。 年を取っていくことが自然の摂理なのです。流れに任せて生きるしかありません。 年を共にとって喜びを分かち合える存在のない自分にとって、最後の人生の課題は、「死ぬ」ということはどういうことなのか。 「生死一如」といって生と死は全く一緒で分かれていない、という考えもあります。また、死は「恵である」という人もおります。 「死」とは無に帰すること、だと、言う人もおります。無に帰するのなら、なぜ葬式やら、お墓やら存在するのか。何故正月に初詣に行くのか。皆何か大いなるものを心の中で信じたいと思っているからなのかもしれない。
もちろん答えなどは先人が考え尽くしても出なかったことではありますが、自然と考えないではいられません。不思議は無限大に拡がる。世の中はどんどん変わっていく。あらゆるものが留まることがない。想えば遠くへ来たもんだ。自分が消滅する「とき」がやってくるなんてやはり信じられない! 残りの人生は義理を欠いて、できる限り自分のやりたいことだけを思う存分やって楽しんでくらしてゆけたらと思っている今日この頃です。 最後にこれまで会報の編集に中心となって携わってくださって、大変な作業を労を惜しまず作成してくださった石井さんに心より御礼申し上げます。お蔭で毎号大変楽しく読ませていただきました。ありがとうございました。(2021.2.11) ![]() 2021冬のつれづれ リビングの中にあるフォトフレームの中で仲良く並ぶ2枚は、実家の縁側に座る1歳の夫と、公園の遊具に立つ3歳の私です。 歩き始めた人生の途中、出会うことなどつゆ知らずの頃の二人...。 モノクロ写真の幼い笑顔の隣に、結婚して間もない頃のツーショットの笑顔を並べています。 あの日、あの時、あの場所で夫に会えたことで、沢山の幸せがありました。 ~冬の花火~ 夫と出会った冬に、岩手の雪まつりで一緒に花火を見ました。キーンと冷たい空気と一面の雪の中、甘酒片手に初めて見た冬の花火はとてもキレイでした。結婚後、夫から “ず〜っと口を開けて見てたぞ!” と言われた事も今では懐かしい思い出になりました。 ~ナイフの使い方へ~ “不幸はナイフのようなものだ。ナイフの刃をつかめば手を切るが、取っ手をつかめば役に立つ” (ハーマン・メルヴィル) 2014年秋に私が拾ったナイフは、今度夫に会う日まで持ち続けないといけないものです。 大好きな人を失う悲しみの深さを知った。夫に何もしてあげられないのなら、誰かに優しくしたいと思った。 自分が動かなければ、何も変わらないと分かった。私のこれからの日々のため、ナイフを上手く使って行くつもりです。 (2021.2.13) ![]() 気まま入会時のこと 平成26年3月末に突然妻に先立たれ、これから一人でどう生きていこうかと悲しみの中、同年8月15日にNHK Eテレで放送された団塊スタイル ”配偶者の死別と向き合う” を視聴したのが、きっかけである。私と同じように多くの仲間の方もこの放送により気ままサロンに入会されたと聞く。 当時の番組放映内容は、VHSテープに録画し、今はDVDにダビングして保存しているが、その時の放送を見て、手書きしたメモ用紙がクリアファイルに残っている。そのメモ用紙には次のようなメモを書き留めている。
石井様からは、気ままサロンは配偶者を亡くした悲しみを共有するために「会報、メール、イベント」の三本柱で活動していること、親切・丁寧に慈愛に満ちた言葉をいただき、入会を決意したと記憶しています。 「気ままサロン」も誕生して20年が経過しています。会員の高齢化もあって会運営のお世話をする人材が不足とのこと。地方会員でも幹事として一緒になって謙虚に活動を支えていける仕組み作りが求められています。皆さん気ままサロンを発展させましょう。(2021.02.13) ![]() 夫の死から ~心の遍歴~ どんな人かな。「何を質問したらいいか、経歴書を書いてよ」と。 「まあ、いいか」って書いた経歴書が、この原稿である。余り長過ぎて、インタビュー記事にならなかった。幻の原稿にもしたくないので、掲載をお許しいただきたい。 ▲▽夫の死が理解できない 22年前、夫は、突然旅立った。朝、元気で出勤した夫、私が勤めから帰った時には、嘔吐した姿でソファーに倒れ、既に意識が薄れていた。夫の名前を絶叫しても、目を空けてくれることはなかった。まさに、蓮如の『御文』の中の「白骨の章」“されば、朝には紅顔ありて、タベには白骨となれる身なり”であった。死が信じられない。どうして死んでしまったの、私をおいて、その繰り返しだった。「私が勤めていたせいで夫は死んだ。夫が死んだのは私の責任」と自責と悔恨の日々であった。最愛の人の死・・・私も死にたい、そう思った。 ▲▽それから 勤めを終えて帰ると、待っているのは骨壺に入った夫、それを抱いて声を上げて泣いた。人は何故死ぬのか、それも私の夫が。夫はどこへ行ったの。仕事をしていても、突然襲ってくる悲しみを抑えることが出来なかった。嗚咽が漏れて傍の人を困らせた。 働く力も失せ、仕夢に熱が入らなかった。夢遊病者のように、ただ「死」というタイトルの付いた本を片っ端から読みあさった。それでも納得できなかった。 迷った挙句、真理を突き止めたくて大学院へ行くことを決心した。研究計画書に「死を究める」と書いた。第三者が見たら、“死”という言葉が新鮮に写ったのだろう。 面接の時に、「生死(しょうじ)の哲学、大切な事ですね」と言って、西田哲学の著名な教授が私を拾ってくれた。 単位取得も大変だったけれど、修士論文を何にするか、西田の中からは見つけることが出来なかった。 ▲▽『正法眼職』と私 教授は、「それでは、道元をやってみませんか」と救いの道をしめしてくれたけれど、鎌倉初期の禅僧・道元(1200-1253)のことも皆目分らなかった。 『正法眼臓』の中に、「生死」の巻がありますから、それを中心に深めたら、何かを掴むことが出来るでしょう」と、教授はやさしく手を差し伸べてくれた。 『正法眼臓』は、俯瞰を含め80巻にも及ぶと、ともに仏道修行をして僧侶になる人達のために、書かれた書物である。難解な仏教語の文章で、読み進むのは困難を極めたが、随所に生死の語彙が表出していて親しみをもてた。夜も寝ないで辞書・参考書積けとなって、夫の死に拘って涙を流すゆとりもなくなって行った。仕事も忙しく、怠けることは出来なかった。夜間と休日は、殆んど勉強に費やした。 ▲▽ “死” がいつの間にか “生” へ 『正法眼臓』について語ることは簡単にはできない。だが、道元は、「生があることだけでなく、死があるから、今が全開でいきられる」と言っている。道元の時間論によれば、過去は去って存在せず、未来は来ずして存在せず、「いま、ここにある」ことが存在することなのだ、と説いている。死は生とともに隣りあわせにあるようなもので、そんなに嫌うものでもない、ことが理解できた。ここまでで2年もかかったが、卒業が目的ではない。死を極めたい。死ばかり考えていた私は、「ここに生きる意義があるんだよ」と、言われ、今を大切に生きる意義を実践しなくてはならない、と真に思えた。 3年後、修士論文診査が終了した夜、夫が窓越しに「よくやったね」と言ってくれた。「しっかり生きなくてはね。」と返事した。(2021.03.15) ![]()
漂流郵便局(亡き妻への手書) 香川県三豊市、瀬戸内海に浮かぶ小島、粟島(あわしま)にある郵便局です。 2013年に旧粟島郵便局を改装して開設したもので日本郵政の郵便局とは違います。 いつかのどこかのだれか宛て。決して届かない手紙が流れ着く場所・・・ 亡くなった家族や友人、思いを伝えられなかったかつての恋人、ペットや愛した品物、ふるさとの山や小学校でもいい。 悠久の時を超え、届かぬ想いを受け止めてくれる。 漂流郵便局には100以上の「私書箱」がある。 「私書箱」にはだれか宛ての4万通以上のはがきが入っていて、ピアノ線に繋がれ宙を漂っている。 なお、漂流郵便局には、 〒769-1108三豊市詫間町粟島1317-2漂流郵便局留め○○○様 で届きます。はがきのみの受け付けです。 ところで、妻との記念日は3日あります。 妻の命日(8月)、結婚記念日(11月)、そして妻の誕生日(2月)です。 一通目の手紙(はがき)は妻と会えなくなって5年経った2016年11月に出しました。 以来、今回が14通目で、妻の誕生日に当たります。 次回は8月、ちょうど10年目の命日となります。妻とは同じ年の生まれ、同学年なので、私が10才年上になってしまった。 はたして、年相応に我がとれて年老いてきているのだろうか?妻に誉められる生き方が出来ているのだろうか? いつものはがきは自分や家族の近況、今の思いや問いかけなどが主な内容で、一人でも頑張って、貴女の分も楽しく生きてゆくので見守りくださいねと綴じます。 しかし、今回は今までと違った。人生最悪の事故(不注意による大怪我)の報告をしました。 そして、命を守ってくれた貴女への感謝の気持ちを伝えました。 もっと生きたかったのに、無念の中で逝ってしまった妻、その妻から預かった命、その分長く生きなきゃならないのに、あやうく無駄にするところだった。大事にしなければ妻に申し訳ない。 妻に守ってもらった第三の人生、いつまで元気でいられるかはわからないが、年三回の便りは続けてゆくつもりです。 そして、機会があれば粟島を訪ねて妻への便りを探してみるつもりです。 自身、高齢者になって、コロナ禍の不安もあり、肉体的にも精神的にも心細くなる中、亡き妻への手紙は私の生きている証であり、力を貰えていると感じています。 妻との出会いは大学三年生の時でした。 妻も私も手紙のやり取りは苦ではなく、ごく自然に始まりました。 結婚前に私が52通、妻は50通、出しています。 10年前の8月、お通夜前日の茫然自失状態の私に、娘より「おかあさんのタンスにしまってある手紙、棺に入れたら?」と勧められた。 実は昭和56年春、旭川から東京に引っ越しする際、妻が102通の手紙を荷造りしてくれ、その後、何度も引っ越ししたが、捨てないでいてくれたもの。 その手紙のことを娘は妻から聞いていたのでした。 何をしているのかもわからない中、若い頃の妻の手紙を何通か読んだら、どうにも堪らなくなり、涙がとまらなくなりました。 子供の頃、切手集めをしていたという妻の手紙にはいつも記念切手が貼られていたことも思い出され、よけいに寂しさがこみ上げてきた。 残しておいても、読むのは辛過ぎる。時間が経っても、読むのが無理な気がして、棺に全部入れました。 なお、妻の手紙については、私が単身赴任時代のものが何通か残っております。 今でも、40数年前の懐かしい思い出がよみがえってきます。 東京本社の入社式に立つ前、挨拶に行った時、おとうさんから「就職したばかりだし、二~三年仕事してから結婚したら」と言われたことがありました。その時の私は、会社のことを何にもわかっていないのにもかかわらず、 「これから3ヶ月、伊豆で新人研修があり、6月の終わりに人事が発表されます。もし、配属先が北海道なら、すぐ結婚したい」。 と生意気にも答えていた。 「また、松島さんから手紙が届いているよ」とおかあさんがいつも笑いながら声をかけてくれると、貴女の手紙に何度か書かれていました。 私の手紙も40通目を超えた頃、貴女の手紙に「こんなに何通も手紙書いてくるのは感心だ。なかなか出来ることじゃない。 そんなに早く結婚したいなら、それでもいいけど大丈夫なのか?」と両親に言われたと書かれていました。 天にも昇る気分ってこうゆうことなのか。かなりハードな研修を乗り切れたのも手紙のおかげと思います。 それにしても、妻のご両親には大感謝です。私が親なら、就職したばかりで仕事もまともに出来るかわからないような男に大事な一人娘を嫁にはやらない。と反対したかもしれない。 研修所にはピンク電話しか無かった。伊豆と札幌は10円で5秒、200円両替しても100秒しか話せない。だから、手紙のやり取りしかないわけで、お互いが手紙好きだったのが、幸いして結婚にこぎつけたと思っている。 そうは言うものの、結婚までの5か月は大変なものでした。 二人が手を合わせて邁進したこともありましたが、それ以上に、まわりの方々の応援も大きく、22歳の若さで結婚できたと、そんなことを思い出しながら漂流郵便局への手紙を書いています。(2021.03.01) |
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